キャリアの仕切り直し。新しい選択が新たな出会いと研究の場をもたらす。
“人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも一瞬遅からず、早からず”と説いたのは哲学者/教育者の森信三(1896-1992年)である。人に限らず、モノや出来事との出会いもまた、人生を新しい場所へと運ぶ水脈となるのだろう。石田修一教授も「素晴らしい人たちとの出会いによって、研究者としての道がひらかれた」と感謝の念を語る。しかし、若いエンジニア時代には、理想と現実とのはざまに揺れ、挫折感を抱えて郷里に帰った経験もある。石田教授の話は、不確実な時代を生きる私たちへの示唆にあふれている。
大学院を修了後、就職した会社ではリチウムイオン電池の開発に従事した。時は平成初期、バブル景気がはじけ、平成不況の暗雲が垂れ込めていた。世界にその名をとどろかす企業とて安泰ではいられず、様々な経営判断を下さなければならなかった。その一つが、研究開発部門の縮小だ。石田教授は企画部門(教育ビジネス事業室)に籍を移すこととなった。
「技術的に非常に優れた成果であっても、世界的な情勢、技術的トレンド、会社の戦略・方針などによって、必ずしも日の目を見るわけではありません。しかし、その頃は若かったこともありますが、自分が開発した技術が社会実装され、人びとの暮らしに役立つことを信じて、一途に頑張っていました。競争市場の中で、技術がどのように有用で価値があるのかといった視点から眺めることができなかったのですね」。そうした経験は、現在、研究者の卵や若いエンジニアの振る舞い・メンタリティを読み解くことにつながっている。
転属先の企画部門は、あるいは花形部署かもしれなかった。しかし、石田教授は会社を去る。向かった先は、故郷北海道だ。「実家が自動車修理工場を経営していましたので、後継者としての道もあったのですが…」。しかし、石田教授は経営学を修めるべく、再び、学修と研究の場に身を置いた。前職の体験から、ものづくりの技術を経営的な側面(組織・戦略・ネットワーク)からとらえることの必要性を痛感したからだ。技術×経営だ。そしてそこでの出会いにより、次のステージへと導かれることになる。
「師事した寺本義也先生は、ベストセラーとなった『失敗の本質』(中央公論社、1991年)の共著者として有名な方でしたが、ネットワークと経営研究の第一人者でもありました。当時の経営学は、指導者と学生との連携が緊密な分野として知られていましたが、寺本先生は学生の自主性に任せ、自由な試みを許容される方でした。おかげで興味のあることに思う存分、取り組むことができました」。おもしろいという感懐は、研究を大きく推進させる力となった。